名前を呼ばれるということ

 高校を卒業した日、家に帰ったあとに寝床へぶっ倒れた。

 卒業式をつつがなく終え、涙ぐんだのも少しであったのに、家の扉を閉じた瞬間に自分の心は、惜別の念に堪えなくなったのである。


 ぶっ倒れた自分は30分~1時間ほど眠っていた。そして不思議な夢、もとい思い出を見ていた。

 それは、今まで高校で関わった人に名前を呼ばれる、というものだった。

 クラスメイトに始まり、部活仲間、先輩後輩、それと恩師。

 各々が、名字(自分の名字はかなり呼びやすいもので、今までほぼ名字で呼ばれていた)、名前、愛称と、彼ら彼女らがまるで走馬灯のように、自分を呼ぶ声が聞こえたのだ。そんな呼びかけの思い出に涙していた。


 なぜ呼びかけの思い出に浸っていたのか。思うに、名前を呼ばれることで自身の存在が受け入れられていたと実感していたのではなかろうか。名前を呼ばれるというのは、呼ぶ者から存在を認識されていることを示す。私は確かにあの場で存在できていたという実感だ。


 それほどまで母校へ思い入れがあった。通っていた高校には実に様々な方面に優れた人がいた。その環境の中で存在できたことは実に幸運で、幸せであった。

 そして何より楽しかった。話す話題にしろ、振る舞いにしろ、彼ら彼女らの感覚は自分のそれとマッチしていたから。内申書に怯えていい子を演じ、同じレベルで語り合える友を見つけられず、鬱屈した中学時代から解放された気分だった。まさに、自分らしい自分として生きることができた。

 つい先日、中学の同級生に「お前は本能で生きているともっぱらの噂だった」という話をされた。もちろんいい意味でも悪い意味でも。だが彼は知らない、それですら持て余していた自分を我慢させずにいられた高校時代の姿を。別に裁きを下したいわけではないが、なぜかそんな反論を思い浮かべていた。


 自分にとっての高校卒業は、生きながら進行形で感知できた「人生のひと区切り」だったのだろう。まるで、「ここまでの物語は一度終わり」と章を終えられるような。そしてまた新しい物語を紡いでいかなくてはならない。それも新しい環境で。旅立ちが恐ろしく、寂しかったのである。

 

 居心地が良すぎるのも考えもので、次のステージに行く勇気をなくしてしまう。いつだって、安心できる場所からの旅立ちには、少し足がすくんでしまう。

 それでも結局なんだかんだで今はやっていっているのだが、未だに卒業の日のことは忘れられない。あの時受け入れられた喜びを忘れることはできない。